ブログ

ブログ · 2021/07/13
友か、一人づつ去って行く。「ねえ、あんた、わたしの死水とるなんて約束したのに、先に行くなんて、冗談じゃないよ。くやしいったらありゃしない。寂しいね、酒の肴になる話も、聞けなくなるなんて。わたしをおいていかないでよ」赤い糸でなく、黒い縄にしがみつき、ねじれたところで足を踏ん張り、互いに辛苦をなめ、言いたいこと言えた友が、一人去り、二人去る。いつになったら自分の番がやってくるやら?早い者勝って言うけど、納得だね。孝行息子が、十二文いれてやるから三途の川を戻ってこいよと言われた。川の渡しとよい仲になり、岸で酒をあおりながら四方山話に、花咲かせ、旅人を送り出すのもよいかも。渡ったところで、どうせ地獄の釜の中、渡し守の、肌に触れている方がわたしにゃ、合っていると、ウフフフ。友が来たり、親戚が来たり、そして子供が来たら「どうしたんだ、こんなところで、まだ、ウロウロしていて?」「だって、あと六文たりなくてね~」こんな会話もまんざらではないですよ。あの世に行くのも、だんだん楽しくなってきました。「あとから行くからね。まっててよ~」合わせる手にも気合いが入ります。

ブログ · 2021/06/23
衣替えの、季節になり、押し入れをあけると、右角の隅のススけたブリキの缶が目にはいる。何年発行の英字新聞だろう?一面に張り巡らされた1ヶ所に、マリリン、モンローの妖艶な姿が、微笑んでいる。古き映画に写る広告塔のような姿。そこが自分の確固たる場所のように、あぐらをかいている。今年こそは、この中味を灰にしょうと手を伸ばす。この家に25年、移転するときに、なぜか一緒についてきてしまった。何十年も、このきしむ蓋を開けてないだろうか、まるで、浦島太郎の玉手箱、一瞬にして、時の歯車を、逆転させる。この中には、別れた夫との間に交わした手紙、3年間かきつづった、ねむっている。貧しくても愛があれば、空腹は満たされ、心は潤っていると思っていた頃のことだ。こんなに日本の言葉が素晴らしく美しいと思ったこと、氷点下の夜、何時間もかけ、小さなバイクで愛を届けてくれたこと、ガンジーがなくなった夜、二人で見上げた空に大きな流れ星が散っていったこと。この中には、無垢な二人がいきているのだ。「もう、しばらく、このまま」どこかで、呟く。今年も開けることなく、過ぎ行く夏。古びた缶が、宝石のように、煌めく季節になった。

ブログ · 2021/05/09
墓参りに行こうかな?55歳で亡くなった、色白で、痩せた母の姿が忍ばれます。薄紫が好きで、似合う人でした。小学生のころは、自慢の母で、参観日に、きてくれるのが、楽しみでした。教室の、後ろに立つと涼しげな風が過ぎるような、着物姿の母が大好きでした。心臓が悪く、喘息もあり、かけ布団を重ねた上に、うつ伏せで、苦しそうに、ゼーゼー、おとのする胸が、波打っていました。子供ながら、その部屋へは、足が遠のきました。母は19歳の時、南方より帰国し、軍関係の仕事をしていた父と祖母が縁をまとめることになりました。戦後、切り替えの早い祖父は、米国との仕事で会社を、広げ当時は、そこそこの生活を、していました。母は、学校にあがる前、料亭を営んでいた母の叔母に当たる人の養女になりました。叔母=私の祖母です。大層きつい人で、朝早くから、掃除、飯炊きの、日々で、遊郭に奉公に出された女の子のようでした、時代背景からして、そうだったのではないかと?三男三女の二女として生まれました。祖父は由緒ある家柄にも関わらず、大学時代祖母と駆け落ち、転落の人生を送り、晩年は高く積まれた書籍のなかでペンを走らせる老人になっていたと、記憶にのこっています。素直で静かな母は、負けずぎらいの兄妹の中から選ばれたの当然でした。ほんとは、病弱だったからなのかも知れません。子供の頃の話は 、してくれませんでした。父と結婚したのも、戦地に行く若者が多く、自分の考えなど、いえなかったからです。御国のため異国に散った人々は、様々な想いを抱いていたのだろうと思います。物心ついたときには 母が台所に立つ姿はありませんでした。お手伝いさんが、掃除、洗濯、食事の支度、祖父はまめな人で、細かなことをやってくれました。弟が生まれてからは母と寝ることもなく離れの祖父母の家で大切に、可愛がられる日々でした。養子の父を奉公人と思っていた時も有りましたら。申し訳ない気持ちでいっぱいです。故郷をはなれるころになり、母は「逢えた時が最後になるからね」口ぐせでした。この地に来て10年、母は言い当てたように旅立っていきました。母の亡くなったと同じ年になった時、何につけても感慨ふかいものがありました。母は、もっと多くのことをしたかったでしょうに。伝えたかったことも、一杯有ったと思います。救急車に付き添った友人に「神様助けてください。生きたいです」と、叫んでいたと聞きました。その言葉が今でも耳をはなれません。幼いときより苦労して、青春を戦争で失い、子供とも過ごすことができない体で、何が幸せだったのだろう?幸せの手助けを少しでも、してあげることができたらならばと、親不孝者な自分が残念でなりません。孫のふとした表情に、ありし日の母の面影がよぎります。この子の中に、ず~とつながっている命を感じます。

ブログ · 2021/05/05
人生の岐路に立った時、どういう訳か、困難な道を選んでしまう。もっと、楽な生き方が...

ブログ · 2021/04/18
静かな生活が続くと、心がざわざわ騒ぎ、落ち着かない。安穏とした生活に慣れていないのもある。また、きっと、奈落の底に落ちていくのではないかと?地を這うような、そんな生き方が、合っているにちがいない。長い年月が、こころのどこかに、洗い流せないシミとなってのこっている。地中深くねむるまで、持っていこう。喜びと悲しみは背中合わせ。...

ブログ · 2021/04/13
好きな人を、自分だけの人にしたいと思うのは、女の、浅はかさでしょうか?♀は♂と、違う生き物だと、わかっていても、頭のなかで、二つの考えが、仲違いしまいます。物事の道理が理解できないわけではないのに、なぜか恋愛になると、心がコントロールできずに、大嫌いな分別つかない女になってしまいます。彼の去って行く、後ろ姿をみながら、嫌な女を演じてしまう私は、反省しかりです。男というものを理解してあげなくては「わかってますよ。わかっちゃいるけど、やめられない」毒舌を吐き、窮地に追い込み、かちほこったように「逃げ道を開けなくて、どうするのよ」「このままじゃ、とりかえしつかないことになるよ」。恋愛するたび繰り返す。悲しい思いをするのは、自分なのに。どこかに潜んでいるプライドが、どうしても、許せないんです。一人ポツンとたたづむ自分に気がつく、失いたくない恋なのに・・・今夜も捨て台詞はいてしまった。「恋する資格ないですよね」また、寂しさに恋愛する。♂の本能をもたない男には、♂たる魅力もないのかもしれない。失っても、失っても、恋にいきる自分に満足しながら、新しい恋を求めてさまよう。♀なのだから、わたしは・・・

ブログ · 2021/04/10
桜が、終わると、きそうように、ツツジが、堀、車道づたいに色を添えます。学生のころ行った、塩嶺峠を思い出す。岐蘇路記、宮本武蔵、で紹介された塩嶺御野立公園。諏訪湖、八ヶ岳、北アルプス、富士山の、パノラマは、素晴らしく、小鳥の森も、有名です。日本には、たくさんの知られていない、心和む、ふるさとがあります。海外ばかり目を向けず、コロナ解禁後には、訪ねてみるのも良いかと?思い出は、老人には、宝石箱。