墓参りに行こうかな?55歳で亡くなった、色白で、痩せた母の姿が忍ばれます。薄紫が好きで、似合う人でした。小学生のころは、自慢の母で、参観日に、きてくれるのが、楽しみでした。教室の、後ろに立つと涼しげな風が過ぎるような、着物姿の母が大好きでした。心臓が悪く、喘息もあり、かけ布団を重ねた上に、うつ伏せで、苦しそうに、ゼーゼー、おとのする胸が、波打っていました。子供ながら、その部屋へは、足が遠のきました。母は19歳の時、南方より帰国し、軍関係の仕事をしていた父と祖母が縁をまとめることになりました。戦後、切り替えの早い祖父は、米国との仕事で会社を、広げ当時は、そこそこの生活を、していました。母は、学校にあがる前、料亭を営んでいた母の叔母に当たる人の養女になりました。叔母=私の祖母です。大層きつい人で、朝早くから、掃除、飯炊きの、日々で、遊郭に奉公に出された女の子のようでした、時代背景からして、そうだったのではないかと?三男三女の二女として生まれました。祖父は由緒ある家柄にも関わらず、大学時代祖母と駆け落ち、転落の人生を送り、晩年は高く積まれた書籍のなかでペンを走らせる老人になっていたと、記憶にのこっています。素直で静かな母は、負けずぎらいの兄妹の中から選ばれたの当然でした。ほんとは、病弱だったからなのかも知れません。子供の頃の話は 、してくれませんでした。父と結婚したのも、戦地に行く若者が多く、自分の考えなど、いえなかったからです。御国のため異国に散った人々は、様々な想いを抱いていたのだろうと思います。物心ついたときには 母が台所に立つ姿はありませんでした。お手伝いさんが、掃除、洗濯、食事の支度、祖父はまめな人で、細かなことをやってくれました。弟が生まれてからは母と寝ることもなく離れの祖父母の家で大切に、可愛がられる日々でした。養子の父を奉公人と思っていた時も有りましたら。申し訳ない気持ちでいっぱいです。故郷をはなれるころになり、母は「逢えた時が最後になるからね」口ぐせでした。この地に来て10年、母は言い当てたように旅立っていきました。母の亡くなったと同じ年になった時、何につけても感慨ふかいものがありました。母は、もっと多くのことをしたかったでしょうに。伝えたかったことも、一杯有ったと思います。救急車に付き添った友人に「神様助けてください。生きたいです」と、叫んでいたと聞きました。その言葉が今でも耳をはなれません。幼いときより苦労して、青春を戦争で失い、子供とも過ごすことができない体で、何が幸せだったのだろう?幸せの手助けを少しでも、してあげることができたらならばと、親不孝者な自分が残念でなりません。孫のふとした表情に、ありし日の母の面影がよぎります。この子の中に、ず~とつながっている命を感じます。